戦国時代の終わりと江戸時代の社会
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1.戦国時代(せんごくじだい)の終わり
(1)15世紀末(せいきまつ)から16世紀末までの約100年間(ねんかん)、日本では戦国時代が続いた。この時代は、家臣が主人を殺(ころ)したり、身分(みぶん)の低い者が主人に認(みと)められて高い地位(ちい)に上(のぼ)り、戦国大名にまでなるような下克上の時代だった。その中で最も成功したのが織田信長(おだのぶなが)だ。しかし1582年、国の統一(とういつ)を目の前にして家臣(かしん)の明智光秀(あけちみつひで)に京都の本能寺(ほんのうじ)で襲われ自害した。
織田信長 明智光秀
(2)この戦国時代を終わらせ、1590年に国を統一(とういつ)したのは豊臣秀吉(とよとみひでよし)だ。秀吉は本能寺(ほんのうじ)で死んだ織田信長(おだのぶなが)に足軽として仕えたが、才能(さいのう)に恵(めぐ)まれ、次第(しだい)にその能力を認(みと)められて重要な地位に就くようになった。
明智光秀(あけちみつひで)が本能寺(ほんのうじ)を襲(おそ)った時秀吉(ひでよし)は戦国大名(せんごくだいみょう)と戦っていたが、直(ただ)ちに講和を結び京都に戻(もど)って光秀を討(う)った。信長の死からわずか13日後(ご)のことだった。このようにして、豊臣秀吉はついに日本の支配者(しはいしゃ)になった。
(3)しかし豊臣家(とよとみけ)の支配は秀吉一代限(かぎ)りだった。1598年に秀吉が死ぬと、彼の家臣(かしん)として仕えていた徳川家康(とくがわいえやす)と石田三成(いしだみつなり)の対立(たいりつ)が激(はげ)しくなり、1600年に関ケ原の戦いが起こった。この戦いに勝った家康が将軍(しょうぐん)の地位に就(つ)いて1603年に江戸に幕府を開き、国を支配することになったのだ。
そののち、1867年に十五代将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権を天皇(てんのう)に返す(大政奉還)までの約260年、徳川幕府(ばくふ)のもとで戦争のない社会が続いた。
2.江戸時代の社会
(1)江戸時代の社会を表(あらわ)す重要な言葉が幾(いく)つかある。身分制度(みぶんせいど)、参勤交代制度、キリスト教の禁止(きんし)、鎖国、町人文化の発展(はってん)、などだ。江戸時代は身分が厳(きび)しく定められた時代で、人々は職業(しょくぎょう)によって武士(ぶし)、町人(ちょうにん)、百姓に区別(くべつ)されていた。武士は社会を支配する身分で、苗字を名乗り、刀(かたな)を持つことが許(ゆる)されていた。町人とは職人(しょくにん)や商人(しょうにん)。百姓(ひゃくしょう)とは農業、漁業(ぎょぎょう)、林業を仕事にする人々のことだった。
武士 町人 百姓(農民)
(2)武士の中で特(とく)に力を持っていたのは、それぞれの藩を支配する大名だった。彼等(かれら)の行動を厳(きび)しく制限(せいげん)するために、二代将軍(にだいしょうぐん)徳川秀忠(ひでただ)は「武家諸法度」を出した。これは現代の法律(ほうりつ)のようなもので、この法律によって大名は、例えば自由に結婚することや、新しく城(しろ)を作ることを禁止された。
(3)また、三代将軍徳川家光(いえみつ)がこの法律に加(くわ)えた参勤交代制度(さんきんこうたいせいど)のもとで、大名(だいみょう)は一年おきに自分の領地と江戸を行ったり来たりすることになった。領地(りょうち)に帰る時は、妻や子を人質として江戸に残(のこ)す決(き)まりだった。江戸往復(おうふく)には、宿泊費(しゅくはくひ)に加えて、武器(ぶき)、衣服(いふく)、食事代など莫大(ばくだい)なお金がかかり、そのすべては大名たち自身が負担(ふたん)した。そうやってお金を使わせ謀反を防(ふせ)ぐことが家光(いえみつ)の狙(ねら)いだった。
(4)さらに家光は、祖父(そふ)の家康(いえやす)の時代から進められていた鎖国(さこく)を完成させた。鎖国の主(おも)な目的は、キリスト教の禁止(きんし)を徹底(てってい)することと、キリスト教を広める可能性(かのうせい)の低(ひく)いオランダと中国だけを相手(あいて)に、長崎市(ながさきし)の出島(でじま)で貿易(ぼうえき)をし、その利益(りえき)を幕府(ばくふ)が独占することだった。キリスト教の禁止は、家康の時代から既(すで)に行われていた。家康は信者を弾圧(だんあつ)し、幕府に隠(かく)れてキリスト教を信じている人々を見つけるために、毎年一回、キリスト像(ぞう)などが描(えが)かれた板(いた)を踏(ふ)ませるという「絵踏(えぶ)み」を行ったが、それでも信者(しんじゃ)は各地(かくち)に存在し続けた。
(5)そして家光の時代に、信者(しんじゃ)の多かった長崎県(ながさきけん)の島原(しまばら)で、キリスト教の弾圧に不満(ふまん)を持ち、また重い年貢に苦しむ百姓(ひゃくしょう)が、信者だった天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)の指導のもとに「島原の乱」と言われる反乱を起こした。幕府は十二万もの軍隊(ぐんたい)を送り、ようやくこの反乱(はんらん)を治(おさ)めたが、百姓の団結力(だんけつりょく)を痛(いた)いほど感じた家光は、鎖国(さこく)を通じ、キリスト教を一層(いっそう)厳(きび)しく取り締まったのだ。
(6)その後、五代将軍(ごだいしょうぐん)徳川綱吉(つなよし)の治(おさ)める元禄(げんろく)時代(1688-1704)に、人形浄瑠璃や歌舞伎などの町人文化(ちょうにんぶんか)が大きく発展(はってん)した。戦争のない社会が続き、都市(とし)の町人が力を持ち、芸能(げいのう)を楽しむ余裕(よゆう)が生まれてきたのだ。一方で、この時代は厳(きび)しい身分制度(みぶんせいど)の下(もと)で苦(くる)しむ庶民も多かった。例えばある時期には、身分の違(ちが)いから結婚できない男女が心中するという事件が頻繁に起こった。人形浄瑠璃や歌舞伎はこのような事件をすぐに芝居に取り入れたため、その影響(えいきょう)で心中(しんじゅう)がますます多くなったと考えた幕府はこれらの芝居を禁止(きんし)した。しかし町人文化の勢(いきお)いを止めることはできなかった。