第7課 中間管理職の悲哀
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1.二人の家老
(1)『仮名手本忠臣蔵』には、一見対照的(たいしょうてき)な二人(ふたり)の家老が登場(とうじょう)する。塩冶家(えんやけ)の家老(かろう)で指導者(しどうしゃ)として尊敬(そんけい)されている大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)と、桃井家(もものいけ)の家老で高師直(こうのもろなお)に賄賂を渡(わた)したことで軽蔑され、その上、塩冶判官(えんやはんがん)が師直を殺す邪魔(じゃま)をしたために塩冶家から恨(うら)まれている加古川本蔵(かこがわほんぞう)だ。
(左:大星由良之助、右:加古川本蔵)
(2)しかし実際(じっさい)には、二人の家老の立場(たちば)はよく似(に)ていた。二人とも短気な主人に振り回された。加古川本蔵(かこがわほんぞう)の主人の桃井若狭之助(もものいわかさのすけ)は、自分を侮辱した高師直(こうのもろなお)が許(ゆる)せず、師直を切る決心(けっしん)をした。その結果(けっか)家は潰(つぶ)れるかもしれないが、我慢(がまん)の限界を越(こ)えてしまった若狭之助を止(と)めることは誰(だれ)にもできない。そのような主人の性格(せいかく)を知っている本蔵は、師直に分不相応な高価(こうか)な贈(おく)り物(もの)をして彼の機嫌(きげん)を取り、若狭之助と和解させようとした。賄賂(わいろ)による解決が恥ずべきことであったとしても、それ以外の方法がない以上、桃井家を守る家老の立場としてはやむを得ない行動であった。
(高師直に贈り物を届ける加古川本蔵:左から二人目)
(3)一方、塩冶判官(えんやはんがん)は若狭之助(わかさのすけ)よりずっと穏(おだ)やかな性格で、師直(もろなお)の侮辱(ぶじょく)にも必死(ひっし)で耐(た)えようとした。しかし最後には我慢しきれずに刀(かたな)を抜(ぬ)いてしまった。判官には、家のこと、家臣(かしん)のことを考えて耐え抜いて欲しかった、と由良助は思う。その無念さを込(こ)めて、由良之助(ゆらのすけ)は「御主人(ごしゅじん)の御(ご)短慮なる御(おん)仕業…」(御主人が短気な行動を取ったために…)と嘆くのである。
(城明け渡しの場、中央:大星由良之助)
(4)二人はまた、武士(ぶし)の生き方(かた)を貫くために死ぬ覚悟(かくご)をする。本蔵は師直に切りつけた塩冶判官を抱(だ)き止めた。それは、「相手が死ななければ判官が切腹することもないだろう」と考えたからだ。しかし判官は結局切腹、塩冶家は潰(つぶ)れた。一方で師直は生きている。判官のためを思って取った行動だったが、判断(はんだん)を誤った。塩冶家の家臣の憎しみが自分に向くのは当然だ。大星力弥(おおぼしりきや)と娘の結婚もこのままでは実現しない。父として、また武士として立派(りっぱ)に生きる唯一(ゆいいつ)の道は、責任を取って死ぬことだ、と本蔵は思う。
(5)一方由良之助(ゆらのすけ)は、主君の短気(たんき)な行動が取り返しのつかない結果を招(まね)いたことを嘆(なげ)きながらも、忠義の武士としては主君の仇を討(う)たなければならない。それが家臣として取るべき正しい道だ。しかし敵(てき)であっても人を殺すのだ。あだ討ちが成功すれば生きていられないだろう。それでも正しい道を進む。仕方(しかた)のないことだ。そう考える。
(6)二人の家老は同じような状況(じょうきょう)に置(お)かれていた。二人とも主君の言動に翻弄された。しかし強い忠義(ちゅうぎ)の心と武士としての誇(ほこ)りを持つ二人は、主君と家を守るために最後には死ぬ覚悟(かくご)を決めた。『仮名手本忠臣蔵』は、「主君に仕える二人の中間管理職の悲哀を描くドラマ」(橋本治『浄瑠璃を読もう』p.82)なのである。
2.庶民の視点を持つ物語
(1)『仮名手本忠臣蔵』では忠義を貫(つらぬ)く二人の家老の行動を単純(たんじゅん)に褒(ほ)めたたえてはいない。むしろ無念(むねん)な気持ちを押(お)し殺して主君に仕(つか)える二人の悲哀(ひあい)が物語の核になっている。また、あだ討(う)ちを主要なテーマとしているはずなのに、討ち入りまでの浪士たちの苦労(くろう)や活躍(かつやく)は描(えが)かれない。『仮名手本忠臣蔵』で主役になる浪士(ろうし)は、由良之助(ゆらのすけ)を除(のぞ)いては、お軽(かる)との恋が原因で一度は百姓になり、最後に自分の命と引き換えにあだ討ちへの参加を許される早野勘平(はやのかんぺい)と、百姓(ひゃくしょう)出身(しゅっしん)の足軽・寺岡平右衛門(てらおかへいえもん)だけだ。平右衛門も、身分の低さを理由に最初はあだ討(う)ち参加を拒否された。この二人が苦しみながら仲間として認められる過程(かてい)に焦点(しょうてん)が当てられる。
(寺岡平右衛門とその妹お軽)
(2)寺岡平右衛門(てらおかへいえもん)と早野勘平(はやのかんぺい)のモデルは、討(う)ち入(い)りのあと姿(すがた)を消(け)した足軽(あしがる)の寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)と、討ち入り前に切腹した萱野三平(かやのさんぺい)だ。何故(なぜ)この二人が選ばれたのか。それは『仮名手本忠臣蔵』が庶民のために書かれた劇だったからだ、と作家の橋本治(はしもとおさむ)は述(の)べる。武士でない庶民はあだ討ちには参加できない。それでも参加してみたい。それならば、あだ討ちの中心から外(はず)れていた浪士(ろうし)をモデルにして、彼らが最後に参加を許される物語にしよう。勘平と平右衛門は、庶民の夢を託した登場人物だったのだろう。
(寺坂吉右衛門の像:赤穂大石神社)
(3)歌舞伎が誕生(たんじょう)した当時は武士の観客(かんきゃく)が多かった。しかしやがて幕府は武士の芝居見物(しばいけんぶつ)を禁止(きんし)した。実際には武士も見に来たが、殆(ほとん)どの観客は町人や百姓(ひゃくしょう)、すなわち庶民(しょみん)だった。一方歌舞伎役者は、河原者と呼ばれて差別(さべつ)されていた。つまり、歌舞伎は最も低い身分の者たちの間で生まれ、庶民が育てた芸能であり、また入場料収入で生活する商業演劇だった。観客の大半(たいはん)である庶民の共感を得(え)なければ興行は成(な)り立たない。『仮名手本忠臣蔵』が庶民の視点を持つのはそのためだろう。