歌舞伎の発展と赤穂事件
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1.歌舞伎の誕生と発展
(1)元禄時代(1688~1704)の町人文化を代表する歌舞伎の誕生は、江戸幕府が成立した1603年に遡(さかのぼ)る。この年、京都(きょうと)で、出雲大社(いずもたいしゃ)の巫女とされる阿国(おくに)が「かぶき者(もの)」の格好(かっこう)で踊(おど)り、人気を博した。
西洋(せいよう)ではシェークスピアが活躍(かつやく)し、代表作の『ハムレット』が発表された時期だ。「かぶき者」とは「傾(かぶ)く」人々で、「傾く」とは、新しくて変わった格好(かっこう)をしたり、常識(じょうしき)から外(はず)れた行動を取ることだ。この「傾く」という動詞が歌舞伎の語源だと言われている。阿国のかぶき踊りが大評判となったため、これをまねる女一座が次から次へと誕生(たんじょう)したが、女歌舞伎は踊りだけでなく性を売ることもしていたために、社会に悪い影響(えいきょう)を与えるという理由で1629年に禁止(きんし)された。
(2)これに代わって盛(さか)んになったのが若衆歌舞伎だ。
(若衆歌舞伎)
「若衆(わかしゅ)」とは、大人になって前髪(まえがみ)を剃り落とす前の少年のことで、若衆が女性の格好(かっこう)で踊(おど)る舞台(ぶたい)が人気となったが、こちらも性を売ったため、1652年に禁止(きんし)された。そして、役者を成人(せいじん)男性に限(かぎ)った「野郎歌舞伎」だけが上演を許(ゆる)された。現在まで続く歌舞伎の形ができあがったのだ。
(左:若衆髷(まげ)、右:野郎髷)
(3)「野郎(やろう)」だけの舞台に観客の足を運ばせるために、歌舞伎は徐々(じょじょ)に演劇中心の芸能(げいのう)に変化していった。しかし音楽も舞踊(ぶよう)も歌舞伎の重要な要素(ようそ)として残り、音楽を表す「歌(か)」、舞踊を表す「舞(ぶ)」、演技(えんぎ)を表す「伎(き)」という漢字が使われるようになった。江戸時代初めには人形浄瑠璃も生まれた。「浄瑠璃(じょうるり)」という日本の伝統音楽(でんとうおんがく)に合わせて人形を操る演劇(えんげき)で、現代では文楽と呼ばれている。
2.赤穂事件
(1)歌舞伎と人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)が大きく発展した元禄(げんろく)時代終わり頃、赤穂事件(あこうじけん)が起こった。歌舞伎と人形浄瑠璃の名作『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』の基(もと)になった事件だ。
(赤穂城)
始まりは1701年3月14日。その日は、京都から天皇(てんのう)の使者を迎(むか)えて江戸城(えどじょう)で行われていた行事(ぎょうじ)の最終日だった。「高家」という役職に就(つ)いていた吉良上野介(きらこうずけのすけ)が接待役で、赤穂(あこう)藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が彼の補佐役を務めていたが、将軍(しょうぐん)が使者(ししゃ)にお礼を述べる儀式(ぎしき)の直前(ちょくぜん)、城内の松の廊下(ろうか)で内匠頭(たくみのかみ)が突然(とつぜん)刀(かたな)を抜(ぬ)き上野介(こうずけのすけ)を殺そうとしたのだ。
(江戸城・松の廊下跡と松の廊下の縮尺模型)
(2)切りつけた理由として伝(つた)えられているのは、経験の浅い内匠頭(たくみのかみ)が、上野介(こうずけのすけ)に教えを乞うた時に皮肉(ひにく)を言われた上に高価なお礼の品を要求されて腹を立てた、逆に内匠頭から十分な贈(おく)り物がなかったことに怒(おこ)った上野介が彼をいじめた、あるいは二人の領地の主要産業であった塩の製造(せいぞう)をめぐる争い等(など)だが、実際には、はっきりとした理由は分かっていない。
(3)理由はともかく、将軍の住む江戸城で刀を抜くことは重大な犯罪(はんざい)だった。内匠頭は切腹、浅野家(あさのけ)は取り潰され、家臣は浪人となった。一方、上野介(こうずけのすけ)は軽いけがをしただけだった。内匠頭はまわりの武士(ぶし)に取り押さえられたため、上野介を殺せなかったのだ。浅野家の家臣(かしん)はこの事件を主人と上野介の喧嘩(けんか)だと考えた。相手(あいて)は逃げ回っていただけの卑怯者(ひきょうもの)だ。ところが上野介は、城内(じょうない)で刀を抜かなかったことを評価され、罪(つみ)に問(と)われなかった。喧嘩両成敗が基本的な規則であった時代に、内匠頭だけが切腹(せっぷく)を命(めい)じられたことに家臣達(かしんたち)は怒(おこ)り、仇討ちを誓(ちか)った。
(4)1年9ヶ月後の1702年12月14日、浅野家の家老だった大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を指導者(しどうしゃ)とする赤穂浪士(あこうろうし)47人が遂(つい)に上野介(こうずけのすけ)の家に討ち入り、彼を殺して主君の恨みを晴らした。
1603年に江戸幕府(えどばくふ)が誕生(たんじょう)してから百年の間、戦争のない社会が続いてきたため、47人もの集団が武器(ぶき)を持って敵(てき)の家に攻め入るという事件に市民は衝撃を受けたが、浪士(ろうし)の行動は批判(ひはん)されるよりむしろ賞賛された。内匠頭(たくみのかみ)は上野介(こうずけのすけ)にいじめられた犠牲者だと考える人が少なくなかったからだ。内匠頭が切腹を命じられたのに上野介の罪(つみ)が問題にされないのは公平(こうへい)ではない。そう考えて、家臣(かしん)による仇討ちを期待する人が増(ふ)えていたのだ。
(5)幕府内(ばくふない)にも、忠義を尽くした赤穂浪士を許すべきだと考える人々がいたが、結局、彼等は集団で人を殺した犯罪者(はんざいしゃ)だとみなされた。しかし忠義の心が評価(ひょうか)され、役人が首を斬(き)るのではなく、自(みずか)ら切腹(せっぷく)するという名誉の死が許された。吉良(きら)の屋敷(やしき)に討ち入(うちい)った47人のうち、足軽の寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)は事件の直後(ちょくご)に姿(すがた)を消したが、残りの赤穂浪士(あこうろうし)は翌(よく)1703年2月4日にりっぱに切腹した。そののち赤穂浪士(あこうろうし)は歴史的な英雄となった。
(義士祭が今でも各地で行われている。左から、赤穂、東京・泉岳寺、山科)