日本語の勉強と歌舞伎
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1.歴史を取り上げた教材の不足
(1)日本語学習者は様々(さまざま)な理由(りゆう)で日本語を勉強し始める。言語としての日本語に対する興味(きょうみ)、日本人とのコミュニケーション、あるいは日本への留学(りゅうがく)や就職(しゅうしょく)など。日本の芸能(げいのう)や文化に高い関心(かんしん)を持っている学習者も多い。世界の全地域で国際文化交流(こうりゅう)を実施(じっし)している日本の専門機関(せんもんきかん)・国際交流基金(ききん)は数年おきに「日本語教育機関調査(にほんごきょういくきかんちょうさ)」を行っているが、2012年の調査では、日本語学習の目的として「 漫画(まんが)・アニメ・J-POP等(とう)が好きだから」(54.0%)、「歴史(れきし)・文学等への関心」(49.7%)を挙げる教育機関がたくさんあった。
(2)歴史に関心がある学習者はどのように日本語を勉強するのだろうか。日本語教科書に含まれる歴史用語は少ない。中・中上級レベルでも語彙全体のわずか1~3パーセントだ。歴史に焦点を当てた教材そのものが余(あま)り出版(しゅっぱん)されていない。また、毎年全世界で六十万人前後の学習者が受験(じゅけん)する日本語能力試験では、日本の小学校の社会科教科書に出てくる歴史用語でさえ、殆(ほとん)どが上級レベル(「級外(きゅうがい)」あるいは「N1」)に分類(ぶんるい)されている。歴史小説を読みたい、あるいは時代劇(じだいげき)を見たいと思っても、知らない言葉が多ければ楽しめない。さらに、当時の社会的背景(はいけい)や人々の考え方が分らなければ内容(ないよう)を理解(りかい)することは難(むずか)しいだろう。
2.歌舞伎を日本語の勉強に使う理由
(1)この教材は、歌舞伎を通(とお)して歴史用語や時代背景を勉強することを目的としている。歌舞伎には、学校では習(なら)わないが日本人ならば知っている歴史用語がたくさん使われる。歌舞伎は、400年間(ねんかん)続く日本の伝統芸能(でんとうげいのう)だ。表面的(ひょうめんてき)には忠義や親孝行など封建的な考え方に基(もと)づく劇が多い。しかしその裏(うら)には、江戸時代の庶民の批判精神(ひはんせいしん)や皮肉(ひにく)な物の見方(みかた)が隠(かく)されている。何故(なぜ)ならば、歌舞伎は日本で初めて庶民の娯楽(ごらく)として生まれた芸能だからだ。支配階級の武士(ぶし)を主役(しゅやく)にしている劇でさえ、武士の生きかたを突き放して見ている場合が多い。この教材で取り上げる『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』もそうだ。実際(じっさい)に起(お)こったあだ討ち事件を基(もと)にしながら、あだ討ちの中心から外(はず)れた家来や女性が物語の軸になり、一方(いっぽう)で、強い忠義(ちゅうぎ)の心を持つ武士の辛(つら)さが描(えが)かれる。
(『仮名手本忠臣蔵』で重要な役割を演じる早野勘平。ほぼ架空の人物で、実際の赤穂事件では活躍しなかった。)
(2)庶民に支(ささ)えられた歌舞伎は江戸時代の社会に大きな影響力(えいきょうりょく)を持った。例(たと)えば、歌舞伎は心中事件などの町の話題(わだい)をすぐに取り上げた。
その結果、心中(しんじゅう)がますます流行(りゅうこう)したと考えた幕府は心中物(しんじゅうもの)の上演を禁止(きんし)した。また人気役者(やくしゃ)の髪型や着物の柄(がら)・色、あるいは役者の使う櫛(くし)や化粧品(けしょうひん)などがいずれも人々の間で流行したが、庶民の間に贅沢(ぜいたく)が広がることは幕府にとって都合(つごう)が悪かった。
(歌舞伎役者の佐野川市松(さのがわいちまつ)の着た着物の柄が大流行し、「市松模様」が生まれた。)
このため、役者が贅沢な着物(きもの)を着たり庶民と交流することが、江戸時代に再三(さいさん)禁止された。あるいは役者が地方(ちほう)に公演に行くことも禁止された。歌舞伎が地方に普及(ふきゅう)することを恐(おそ)れたのである。このように、強い影響力(えいきょうりょく)を恐れた幕府によって歌舞伎は何度(なんど)も弾圧されながら、それを潜り抜けて生き残った。
(3)第二次大戦後には、日本の伝統文化が否定(ひてい)され、映画やテレビが発達(はったつ)する時代の中で歌舞伎の人気が下がり続けたが、1960年代半(なか)ばから「花形」と言われる若(わか)くて美しい歌舞伎役者の活躍(かつやく)で再(ふたた)び人気を盛り返し、二十一世紀(にじゅういっせいき)になってもたくさんの観客(かんきゃく)を集めている。
坂東玉三郎(ばんどうたまさぶろう) 最近の花形役者
最近では、現代劇作家(蜷川幸雄(にながわゆきお)、野田秀樹(のだひでき)、宮藤官九郎(くどうかんくろう)など)とのコラボ作品、プロジェクション・マッピングを使用したラスベガス公演やバーチャル・アイドルとの共演など、若い人にも楽しめる現代的な演出の歌舞伎がつぎつぎと生まれている。
ラスベガス公演
バーチャルアイドル・初音ミクとの共演
(4)特(とく)に人気漫画(にんきまんが)が原作の歌舞伎作品『ワンピース』は、初演された2015年に大きな話題となり、今まで歌舞伎を見たことのなかった若い漫画ファンを惹きつけ、わずか2年後の2017年に再演された。
(このポスターは、2018年に大阪で再演された時のもの)
この作品も現代劇作家の横内謙介(よこうちけんすけ)とのコラボ作品である。2ヶ月間の公演の途中(とちゅう)、主演の四代目(よだいめ)市川猿之助(いちかわえんのすけ)が舞台上(ぶたいじょう)の事故(じこ)で入院(にゅういん)、二十代の若い役者が代(か)わりを務(つと)めたが、そののちもたくさんの観客(かんきゃく)が劇場に足を運んだ。
(5)さらに歌舞伎は、劇そのものの展開(てんかい)を楽しむ以外(いがい)にも、それぞれの役者の演技(えんぎ)、衣装、踊(おど)り、音楽に注目(ちゅうもく)するなど、さまざまな楽しみ方がある。最初は豪華(ごうか)な衣装を着た人気役者を見るために劇場に行くうちに、台詞(せりふ)が分かってきてますます歌舞伎が面白(おもしろ)くなるという場合も多い。奥(おく)の深(ふか)い芸能だ。
3.歌舞伎を語源とする言葉
また、日常生活(にちじょうせいかつ)で使っている言葉の中に、歌舞伎を語源とする以下のような例がある。幾(いく)つかは、見たり聞いたりしたことがあるかもしれない。
板につく、大当たり、大詰め、おはこ、黒幕、差し金、段取り、どんちゃん騒ぎ、どんでん返し、花道、見得を切る、三枚目、茶番、市松模様、大立ち廻り、愛想づかし、切り口上、口説き、捨てぜりふ、幕の内弁当、黒衣、だんまり